katabamido

口の中で考える。

このブログについて

 こんにちは。

 酒井龍之介です。

 このブログは input、output を問わず、私が「口にしたもの、口にしたこと」を約1000文字で綴るブログです。

 「読んでいただけるような質の高い文章を書き続けること」、「ぜひ触れていただきたいこと」を皆さんにお伝えすることをモットーに連載をしていきたいと意気込んでいます。

 また、本業で技術文章を作成していることもあり、なるべく主観を排した記事をご提供したいとも考えています。

 aboutページと内容は被りますが、おもな提供コンテンツは旅行記、読書記録、技術やデザイン、フィクションです。

 雑多なコンテンツとなりますので、お目当ての記事に合わせてカテゴリをたどっていただけますと幸いです。

 2021年12月ごろまでは g.o.a.t にて「片喰堂」として連載を行っていましたが、g.o.a.t のサービス終了に伴いはてなブログに引っ越してきました。

 その関係で、PC 上においてはすべての記事が縦書きとなっているほか、UDBiz フォントを使用しています。

 スマートフォン用のページでは、今のところ横書きになっていますので、もし今スマートフォンでご覧の方がいらっしゃいましたら、ぜひ PC かタブレットでも記事を開いていただけると、より一層コンテンツをお楽しみいただけると思います。

 可読性やコンテンツに対するお問い合わせ、コメント等はお気軽に各記事コメント欄にお寄せください。

 寄稿依頼や出張のご依頼につきましては、プロフィールより別途お問合せいただけますと幸いです。

 簡単ですが、以上で本ブログの紹介とさせていただきます。

 

 

 

 

一人暮らしのはじまり、書痴のおわり

詩、明朝体、文庫本

有名な詩の一説(ビブリア古書堂の事件手帖だったかな)



 私はかつて書痴でした。

 父親も母親も読書家で、壁面本棚があるような家に暮らしていました。

 小学一年生の頃に図書室で「ハリー・ポッターと賢者の石」に出会ったことをきっかけに、書痴への道を歩み始めたのでした。

 それまでは読書の時間が退屈で仕方がなかったので、小学校低学年には手の届かない場所にあった重そうな本を先生にせがんで困らせてやろうと思っていました。

 結果はあえなく失敗。

 先生は片手でひょいと本をとると、私に渡してくれました。

 本を軽々ととってしまわれたこともさることながら、「お前にはまだ早い」と言われることもなかったので、どこか肩透かしを食らったような気持ちになりました。

 静山社のロゴと、紺色のカバーにクリーム色の紙、目が覚めるようなかぼちゃ色のしおりと、それに合わせたようなオレンジ色の見返しを今でもよく覚えています。

 初めて読む小説は字が多いし、難しい漢字はたくさんあったけれど、同級生の誰もがアクセスできない情報にアクセスできている優越感や、先生が認めてくれたという充実感が、私を読書へと駆り立てました。

 後々、家がそこまで裕福ではなかったことを知ったけれど、両親はそんな中でもやりくりをして、月2冊までは好きな本を買ってくれました。何よりもそれだけの投資(当時は投資なんて言葉は知りませんでしたが、両親がお金をかけてくれていることはわかっていました)をしてくれることがうれしくてたまりませんでした。

 知識量と語彙に反比例するように、みるみる視力が落ちましたが、それでもよかった。

 むしろ視力と引き換えに知識が手に入ることが誇らしくさえありました。

 さて、本棚の話でしたっけ?

 もちろん、一人暮らしを始めた今でも本棚に囲まれた生活を送ってはいます。

 ワンルームを広く見せたいので、腰よりも高い家具はありませんが、漫画に参考書、画集まで幅広くそろえています。

 実家にいた時と変わったところは、小説の割合がかなり小さくなったところでしょうか。

 置き場所がないので、シリーズになりがちな小説は電子書籍で購入することにしています。

 画集や写真集は意外と電子書籍になっていないことが多いこと、子供が見ても面白いことなどを理由に、紙媒体でそろえることにしています。

 自分が賢い人間だとは思いませんが、私の周りの大人たちがそうであったように、子供の学習を妨げない大人でいられることを願っていますし、子供たちは僕らよりずっと多くの情報を1ページから感じ取ってくれると思います。

 

今週のお題「本棚の中身」

 

ジムニー

脱輪した相棒@野々市(まじごめん)

 2020年5月、僕の新たな相棒がやってきた。

 ジムニー(JB23W)2008年式、6型で、ターボ付きのK6Aエンジンを搭載している。パートタイム4WDの5段変速で、1速の状態だとクラッチをつなぐだけで前進する頼もしい奴である。

 人気車種とあって、12年前の車ながら本体価格は84万円、走行距離は8万キロ弱だった。

 前のオーナが丁寧に乗っていたのだろう、傷も汚れもほとんどなく、ぴかぴかのあずき色が可愛い。純正のまま乗られていたこともあって、ほぼ一目ぼれで購入に踏み切った次第だ。

 タイヤとナビが古かったので新しいものに交換し、さらにETCをつけて、初期費用を諸々入れた状態でしめて100万円。

 地場の修理工場を併設している車屋さんと関係を構築できたことを考慮すると、お値段以上の買い物をしたし、何より維持費が安上がりである。

 当時社会人二年目だった身からしてみれば、なかなか計画性のない買い物をしたと思うが、祖父から譲り受けたデミオを下取りに出したお陰で生活への影響はほとんどなかった。

 

 禁煙の有無に特記事項はなかったが、どうやら前のオーナは喫煙者だったらしく、後部座席を外したらタバコの吸い殻が落ちていた。

 しかし、内装にヤニがついているようなことはなく、今も満足して乗っている。

 余談ではあるが、近年電子タバコが台頭している影響で、禁煙車と喫煙車の判別は難しくなっているらしい。

 

 そんな彼も、この2年少々で走行距離が10万キロを超えた。

 1年で1万キロ強走行している計算になる。

 不調らしい不調といえば1度だけプラグが故障したくらいで、それ以外は10万キロ走行した車とは思えないほど快調である。

 左右の足でペダルを踏む感覚といい、不陸の多い道も高速道路もそつなくこなすところといい、ステアリングを握るたびにわくわくさせてくれる相棒だ。

 シートヒータがついていたり、フォグランプがついていたり、各窓がほぼ垂直で見切りがいいところも大変も気に入っている。

 燃費は落ちるが、ぼちぼちフォグランプを増設したり、ルーフキャリアを付けたりと、やってみたい改造で妄想は広がるばかりだ。

 

 老骨に鞭を打つようで恐縮だが、僕は彼がまだまだ現役だと思っているし、きっとジムニーもまだ走れると思っているに違いない。

 これからも、一緒に遠くへ走ってゆこう。たくさん面白いものを見よう。オドメータが回らなくなるまで。

 

今週のお題「人生で一番高い買い物」

オーシャンズテラス柴垣

 

海のみえるドームテントより

 怒涛の繁忙期を終えた三月三十一日のこと。

 僕とジムニーはわき目もふらずに東海北陸道を北進していた。

 湘南を出たのは十七時頃で、目的地は石川県の内灘にあるグランピング施設、オーシャンズテラス柴垣だ。

 金沢で一泊してから、土曜日を内灘で過ごす予定だった。

 

 土曜日は薄曇りで、北陸の四月らしく穏やかだった。

 のと里山街道は風が強く吹いていて、会話もままならないほどだったけれど、風は暖かく湿っていて、ドライブはおおむね順調だった。

 チェックイン予定の十五時丁度についたが、僕たちのほかにも、オーナの知り合いと思しき親子連れやカップル、大学生の男の子たちでロビーはにぎわっていた。

 一通りの説明を受けた後、ドームテントに案内してもらう。

 

 アパートのような鉄扉を開けて中に入ると驚くほど静かで、僕は流体工学実験室の無響室のことを思い出した。

 一般的な建築物と異なり、部屋の内壁が布でできているうえに、テントと違って可搬性を考慮する必要がないため壁面に断熱材が入っているのだろう。

 環境音としては、耳を澄ませば子供の笑い声が聞こえてくる程度で、恋人と僕の言葉だけが数m³程度の空気を震わせて霧散していく。

 テレビもないので、海を眺めながら会話をして過ごす。

 砂浜が波に削られるようにゆっくりと、時間が言葉に溶けていく。

 

 凪のような時間に感動する反面、どこかでサナトリウムを連想してしまう自分に嫌気が差した。

 「なんだか、治療しに来たみたい。」

 僕の自嘲気味な一言を聞いて、恋人は頷いてこう言った。

 「頑張っていたもんね。」

 きっと真意を汲んでくれたのだろう。飾り気のない一言だったけど、そんな素直な言葉に安心感を覚えた。

 夕食を済ませた後、交互にシャワーを浴びに行った。四月といえどまだ桜前線が訪れる前のこと。屋外で過ごすには少し肌寒かったことが記憶に残っている。

 恋人を待っている間、僕はホットカーペットに身を横たえて、ビニル製の窓越しに星空を眺めながら、いつの間にか眠りに落ちていた。

 今までの人生で、星空を眺めながら眠りにつくことがどれほどあっただろうか。

 静寂は人を孤独にしたり、息苦しさを感じさせたりする半面、そばにいてくれる人の体温や言葉を最も減衰が少ない状態で伝えてくれる媒体となりえることを学ぶことができた夜だった。

 

 

今週のお題「何して遊んだ?」

「在宅勤務」と「すべてがFになる」

西田幾多郎記念館

 濃厚接触者になったため、在宅勤務をすることになった。

 状況的には濃厚接触者だったが、無症状なうえ陰性で、自宅待機の間も元気に勤務していたので、余計な事を考える時間がたくさんあった(弊社では在宅勤務中定時退社扱いになるので、いつにもまして自由な時間が長かった)。

 初めて森博嗣*1先生の作品に触れたのは、中学生のころだっただろうか。

 「スカイ・クロラ」が押井守監督により映画化されたとき、文庫版の表紙がアニメ版になり、平積みされていたのに手を伸ばしたことがきっかけで、熱心なファンになったのだと記憶している。今も理系の道を歩んでいるのは、この出会いがきっかけだといえると思う。

 中学生の頃には「スカイ・クロラ」を見に行くほどハイソな趣味を持った友達はいなかったし、何より田舎に暮らしていたので、とても見ることはできなかった。

 森博嗣作品のファンならば誰もが通る道であろう、S&Mシリーズに手を出したのは必然といえると思う。

 私が持っていたのは新装版の方だった(白いレゴブロックでFが形作られた表紙である)。

 さて、本筋に戻ろう。

 なぜ、「在宅勤務」と「すべてがFになる」との間に関連性を見出したのか。それは、物語内のある人物のセリフが鮮明に印象に残っていることに起因する。

 「建築も都市も単なるプログラムにすぎません。集団の意思と情報の道筋だけが都市の概念ですし、すなわちネットワークそのものの概念に近づくことになります。」

 「(前略)人と人が触れ合うような機会は、贅沢品です。エネルギィ的な問題から、そうならざるをえない。(中略)地球環境を守りたいなら、人は移動するべきではありません。私のように部屋に閉じこもるべきですね(後略)。」

 もうすでに、仮想空間には社会が構築されていて、社会に属するために物理的な接触は必要なくなってきている。

 当時もちろんこのような状況が作り出されることは予想だにできなかったとは思うが、ここ数年で仮想空間上の社会の存在は無視できないものになり、加速度的に彼の描いた世界に近づいている。

 奥付を見るに、1998年12月15日に初版が出版されたとのこと。

 その先見性に鳥肌が立った。

 私はきっと、直接彼の講義を受けることはかなわないだろう。しかし今よりももっと彼の思考をたどりたいと思った。

 また森博嗣作品を読もう。

 

*1:以下冗長さを回避するため、敬称を省略しますが、心の底から尊敬している旨をここに示します

クララとお日さま

太陽 雲 夕暮れ

寝床に戻る夕陽@内灘海岸

 久しぶりにフィクションを読了したので、ここに記録します。

 「クララとお日さま」は言わずと知れた2017年のノーベル文学賞受賞作品です。作者はカズオ・イシグロ先生というイギリス人の作家さんとのこと。

 私は小さなワンルームに住んでいるので、紙媒体ではなく電子書籍で購入しました。ちなみに電子書籍の初版は2021年です。

 

 さて、本題に入ります。

 「クララとお日さま」は題名通り、「クララ」というAF(人間の子供に対する友人ロボット:Autonomous Friendsの略でしょうか)が主人公の物語です。

 クララが病気がちなジョジ―という女の子の家に買い取られてから、ジョジ―が実家から巣立ってクララが廃棄されるまでをやさしい文体で描いています。

 AFは人間そっくりな姿形をしたヒューマノイドロボットで、太陽光をエネルギー源としているようです。

 

 太陽をエネルギー源とするというと、私には太陽光発電が思い浮かびますが、人間の形を損なっていないというところから推測するに全く新しい技術が使われているのかもしれません。

 「ロボットvs人類」という学童向けのSF短編集に出てきた月光浴を必要とするロボットと発想が似ているという印象を受けました。

 やはり、人の形を損なわない状態でのエネルギー確保というのは、SF 作家がリアリティを生み出すために焦点となる部分であると推測されます。

 

 また、作中でクララの感情が昂ったり、画像処理が追い付かない場合に視界がボックスで分割されるシーンがあるのですが、これはNDTスキャンマッチング*1とよく似ているなぁという感想を抱きました。おそらく空間をボクセルで分割して処理をおこなうことで、計算負荷を下げているのでしょう。

 ただし、物体認識はカメラによるもののようなので、LiDAR で取得した点群データとカメラによる映像入力の複合処理を行っているのだろうなと思います(人間にわかりやすく説明するためにそういった表現を選んでいる可能性もありますが)。

 なんて妄想する一方で、テレビのブロックノイズのようなものなのかもしれないとも思いました。

 

 各AF達がブラックボックス化しているような表現もあるあたり、もしかしたら、今普及開発が進んでいる ROS(Robot Operatinig System)等を下敷きにした技術が使われているのかもしれないなと思いつつ、作中に表現される社会が AF を受容する形に変化していくまでの過程には様々な課題があったのだろうなと想像しました。

 古典的なSFが描かれた当時よりもそういったロボットと協調する社会やロボットを構成する技術に対する私たちの解像度は上がってきているのでしょう。

 私たちの暮らす社会が技術により変容をしていくことを証左していることがうかがえて、かなりわくわくしながら読み進めました。

 ここまで書いておいてなんですが、作中のどこにも未来を表現していることを示唆する言及はありません。しかしながら私はつい、作中に未来の社会を重ねて読んでしまいました。

 人に似た姿をしたヒューマノイドロボットは古くから多くの人に夢想されてきましたが、要素技術の発展やコンピュータの高性能化を背景にそういった未来が近づいてきているという印象を受けています。

 死ぬまでに彼らとの生活が叶う未来を祈って、今回の読書記録は終わりとしたいと思います。

 

*1:探索空間内にある点群データをボクセルに分割して処理し、センサデータとマッチングを行う計算手法 出典:和歌山大学の中島先生のスライド https://web.wakayama-u.ac.jp/~nakajima/SelfDrivingSystem/assets/pdf/method_pmv_03.pdf

ポークソテー (富山市総曲輪:le tunnel)

 朝からしとしとと降っている雨をよけるようにして、総曲輪のアーケードを歩いていると、パチンコ店から出てきたおじいさんの自転車から手袋が落ちた。

 かろうじて雪は降っていないが、雨のなか素手で自転車のハンドルを握るには寒かったので、拾って手渡す。

 「あったかいもん食べたいね。」
 二人でそう話しながらカレー屋やハンバーガーショップを横目に地場産市場を抜けるとアーケードの裏路地に出てしまった。

 仕方なく首をすぼめながら歩いていると彼女が足を止めたので、心の中で(雨のなかわざわざとまらんでもええやろ)と半ば呆れながら彼女の視線を追うと、「ランチプレート」と「ポークソテー」とだけ書かれた黒板が目に入った。

 「le tunnel」とだけ書かれたガラスの扉の向こうには人二人立つのがやっとの踊り場と地下へ続く狭い階段除いていて、まるでライブハウスのようだった。 が、黒板を信じるならばレストランらしい。
 「行ってみる?」
 そう彼女に声をかけて、ガラスの扉を押し開けた。

 

 「いらっしゃいませ、2名様でよろしいでしょうか。」
 栗毛の店員さんの明るい出迎えに胸をなでおろしながら、ソファ席に腰掛ける。
 店内は深緑の壁紙と、水色のポスター、少し暗めで暖色の照明で整えられており、天井には黒いダクトが走っている。
 一応メニューを出してもらったが、デザートと食後のソフトドリンクを選んだくらいで、僕も彼女もすでにポークソテーの気分だった。
 

 ほどなくして出てきたプレートは美しかった。
 青い縁取りの入ったシンプルな白磁に、付け合わせの豆苗とメインのポークソテーポークソテーは特別ソースがかかっているわけではなかったが、ナイフをしっとりと受け止める肉質と、下に隠れたニンジンのムースに納得させられた。

 確かにソースはいらない。

 ニンジンのムースが香ばしい豚脂を受け止めていて、絡めたまま口に運ぶと思わずほほが緩むバランスだった。

 プレートについてきたハード系のパンがまたおいしかった。小麦のにおいがする皮に、もっちりと水分を保った内部がプレートに残ったムースをすくい上げるのにもってこいで、プレートはたちまちまっさらになってしまった。

 

 「いいもん食べれたね。」
 そういいながら、少し温度の上がった体で狭い階段を上る。
 彼女の直感に内心舌を巻きながら、どこか満たされた気持ちで小雨を歩いた。

 

 

r.gnavi.co.jp

平凡で平凡で平凡な

 私よりも大変な人は沢山いる。

 医療従事者や、コロナで職や家族を失った人。アルバイトができなくなった学生さんや、観光・飲食業の皆さん。代行屋さんも大変だと思う。

 本当はCOVIDー19に言及することなんて、あまりにも平凡すぎてゾッとするけれど、この言葉がタバコの煙のように微かにネットの海を漂ってくれているだけで救われる気がする。

 どこもそうかもしれないけれど、私が暮らしている街では、37歳以下の市民にはワクチンの接種券(権と言ってもいいと思う)が配布されていない。

 自衛の手段は

  1. 手指を消毒すること。

  2. 不織布のマスクをすること。

  3. 他人との接触をなるべく避けること。

  4. 県外への移動を控えること。

  5. 外食を控えること。

  6. ワクチンを接種すること。

 手指の消毒やマスクの着用は個人で取り組んでいく必要がある。

 だけど、他人との接触を避けて、県外への移動や外食を控える事は、働いていると会社や社会の協力無くして実現が難しい。

 

 今日も上司に在宅勤務の打診をした。答えはもちろんノー。理由は作業のデータが紙でしか残っていないし、スキャナを使うのが面倒だから。あるいは、web会議が自力でできないから。

 そんな上司は、若者が出歩くことによる感染の増加について、私のデスクで20分ほど話をして帰っていった。

 

 今日も21時を過ぎるまで働いている。今から調理を始めても、食事にありつけるのは22時をまわるだろう。明日も8:30には出社だ。

 先週も再来週も、県外への出張がある。もちろん、不要不急だから。

 こちらがなるべく接触を避けようとしていることを意に介せず、近くで長話をするお客さんがいる。しかし、感染対策は厳にせよとしつこく言い含められる。

 職場の別の部署の上長がCOVID−19に感染した可能性があるから、遠くに暮らしている恋人には会いに行けない。自分が陽性でなくても、運んでしまう可能性があるらしい。

 気にする人には認識が甘いと言われて、気にしない人には気にしすぎだといわれる。

 持っている武器は、アルコールとマスクだけ。ウィルスのスペシャリストでもないから、誰にも何も根拠のある説明ができない。

 自衛の機会を与えられずに、沢山の人の「仕方がない」に小さく小さく殺されて、この先何が残るのだろう。

 そもそも、自衛の機会が与えられるものだと考えている時点で、あるいは職と住処を手放す覚悟がない時点で、自衛を考えることなど甘いのだろうか。

 世界を変える力がなくては、声を上げることすら許されないのだろうか。

 私よりも大変な人はたくさんいる。

 COVID−19の影響はほとんど受けていないと言っても過言ではない。ただ、平凡で平凡で平凡な故に、こんな愚痴をこぼす事すらもおこがましいと思えてしまう。

 

 自分ですら自分の味方になれないことを哀しく思う。