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割りを食む。

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黒猫の三角

西田幾多郎記念館

 久しぶりに小説を読みました。

 作品名は「黒猫の三角」 森博嗣先生の「Vシリーズ」一作目となる作品です。

 「すべてはFになる」のS&Mシリーズとは主人公が異なりますが、それは本筋とはまた別のお話。

 一年に一度、特定の時期に行われる犯行には規則性がある。しかし、被害者の関連性が非常に薄く、手がかりを手繰るようにして、「探偵」は真相に近づいていく。

 そんな風にしかあらすじが書けないのは非常に心苦しいのですが、「どんなふうにあらすじを表現しても、それが作品の本質につながる糸口となりうる。」そんなニトログリセリンのような作品でした。

 Vシリーズの続編も同様かは不明ですが、S&Mシリーズと同じような作品を期待していると、いまいち物足りないかもしれません。

 東野圭吾先生の作品が好きな方なら、きっと違和感なく入り込めるでしょう。

 しかしながら、世界感はばっちり森先生のそれで、ある意味期待どおりでした。

 事象をモデル化した経験のある人間なら経験がおありかと存じますが、現実世界や、人間の認知は、非常にノイズが多くて複雑です。

 そういった作りの粗さが故意に再現されているあたり、してやられた気分でした。大変勉強になります。

 さて、そんな「黒猫の三角」の中で、特に強く印象に残っているフレーズがあります。

 「最先端の自由な発想とは(中略)それを凡人が、あとから丁寧に理由をつけて、そこまで行ける道を作るわけ。」

 私は中学生の頃から、自分が凡人であることに気が付いていました。

 どこをとっても、特別なところなどどこにもない。

 しいて言うならば、人一倍素直であることくらいでしょうか。

 自分が凡人であると気が付いたとき、私には一つのポリシーができました。

 きっと、私には何かを作り出すことはできない。

 しかし、そんな最先端の自由な発想を邪魔しないことはできる。

 そして、平凡な視点を持つということは、大衆と才能をつなぐための媒介としてならばその価値を示すことができるかもしれない。

 そうすればきっと私だって、誰かのためになることができるかもしれない。

 この作品はそんな記憶を呼び覚ましてくれました。

 いつか私の文章が、誰もが最先端へ至る道筋の一部となりますように。

 そう強く祈りながら、この記事を終わりにしたいと思います。 

今週のお題「最近おもしろかった本」

一人暮らしのはじまり、書痴のおわり

詩、明朝体、文庫本

有名な詩の一説(ビブリア古書堂の事件手帖だったかな)



 私はかつて書痴でした。

 父親も母親も読書家で、壁面本棚があるような家に暮らしていました。

 小学一年生の頃に図書室で「ハリー・ポッターと賢者の石」に出会ったことをきっかけに、書痴への道を歩み始めたのでした。

 それまでは読書の時間が退屈で仕方がなかったので、小学校低学年には手の届かない場所にあった重そうな本を先生にせがんで困らせてやろうと思っていました。

 結果はあえなく失敗。

 先生は片手でひょいと本をとると、私に渡してくれました。

 本を軽々ととってしまわれたこともさることながら、「お前にはまだ早い」と言われることもなかったので、どこか肩透かしを食らったような気持ちになりました。

 静山社のロゴと、紺色のカバーにクリーム色の紙、目が覚めるようなかぼちゃ色のしおりと、それに合わせたようなオレンジ色の見返しを今でもよく覚えています。

 初めて読む小説は字が多いし、難しい漢字はたくさんあったけれど、同級生の誰もがアクセスできない情報にアクセスできている優越感や、先生が認めてくれたという充実感が、私を読書へと駆り立てました。

 後々、家がそこまで裕福ではなかったことを知ったけれど、両親はそんな中でもやりくりをして、月2冊までは好きな本を買ってくれました。何よりもそれだけの投資(当時は投資なんて言葉は知りませんでしたが、両親がお金をかけてくれていることはわかっていました)をしてくれることがうれしくてたまりませんでした。

 知識量と語彙に反比例するように、みるみる視力が落ちましたが、それでもよかった。

 むしろ視力と引き換えに知識が手に入ることが誇らしくさえありました。

 さて、本棚の話でしたっけ?

 もちろん、一人暮らしを始めた今でも本棚に囲まれた生活を送ってはいます。

 ワンルームを広く見せたいので、腰よりも高い家具はありませんが、漫画に参考書、画集まで幅広くそろえています。

 実家にいた時と変わったところは、小説の割合がかなり小さくなったところでしょうか。

 置き場所がないので、シリーズになりがちな小説は電子書籍で購入することにしています。

 画集や写真集は意外と電子書籍になっていないことが多いこと、子供が見ても面白いことなどを理由に、紙媒体でそろえることにしています。

 自分が賢い人間だとは思いませんが、私の周りの大人たちがそうであったように、子供の学習を妨げない大人でいられることを願っていますし、子供たちは僕らよりずっと多くの情報を1ページから感じ取ってくれると思います。

 

今週のお題「本棚の中身」

 

「在宅勤務」と「すべてがFになる」

西田幾多郎記念館

 濃厚接触者になったため、在宅勤務をすることになった。

 状況的には濃厚接触者だったが、無症状なうえ陰性で、自宅待機の間も元気に勤務していたので、余計な事を考える時間がたくさんあった(弊社では在宅勤務中定時退社扱いになるので、いつにもまして自由な時間が長かった)。

 初めて森博嗣*1先生の作品に触れたのは、中学生のころだっただろうか。

 「スカイ・クロラ」が押井守監督により映画化されたとき、文庫版の表紙がアニメ版になり、平積みされていたのに手を伸ばしたことがきっかけで、熱心なファンになったのだと記憶している。今も理系の道を歩んでいるのは、この出会いがきっかけだといえると思う。

 中学生の頃には「スカイ・クロラ」を見に行くほどハイソな趣味を持った友達はいなかったし、何より田舎に暮らしていたので、とても見ることはできなかった。

 森博嗣作品のファンならば誰もが通る道であろう、S&Mシリーズに手を出したのは必然といえると思う。

 私が持っていたのは新装版の方だった(白いレゴブロックでFが形作られた表紙である)。

 さて、本筋に戻ろう。

 なぜ、「在宅勤務」と「すべてがFになる」との間に関連性を見出したのか。それは、物語内のある人物のセリフが鮮明に印象に残っていることに起因する。

 「建築も都市も単なるプログラムにすぎません。集団の意思と情報の道筋だけが都市の概念ですし、すなわちネットワークそのものの概念に近づくことになります。」

 「(前略)人と人が触れ合うような機会は、贅沢品です。エネルギィ的な問題から、そうならざるをえない。(中略)地球環境を守りたいなら、人は移動するべきではありません。私のように部屋に閉じこもるべきですね(後略)。」

 もうすでに、仮想空間には社会が構築されていて、社会に属するために物理的な接触は必要なくなってきている。

 当時もちろんこのような状況が作り出されることは予想だにできなかったとは思うが、ここ数年で仮想空間上の社会の存在は無視できないものになり、加速度的に彼の描いた世界に近づいている。

 奥付を見るに、1998年12月15日に初版が出版されたとのこと。

 その先見性に鳥肌が立った。

 私はきっと、直接彼の講義を受けることはかなわないだろう。しかし今よりももっと彼の思考をたどりたいと思った。

 また森博嗣作品を読もう。

 

*1:以下冗長さを回避するため、敬称を省略しますが、心の底から尊敬している旨をここに示します

クララとお日さま

太陽 雲 夕暮れ

寝床に戻る夕陽@内灘海岸

 久しぶりにフィクションを読了したので、ここに記録します。

 「クララとお日さま」は言わずと知れた2017年のノーベル文学賞受賞作品です。作者はカズオ・イシグロ先生というイギリス人の作家さんとのこと。

 私は小さなワンルームに住んでいるので、紙媒体ではなく電子書籍で購入しました。ちなみに電子書籍の初版は2021年です。

 

 さて、本題に入ります。

 「クララとお日さま」は題名通り、「クララ」というAF(人間の子供に対する友人ロボット:Autonomous Friendsの略でしょうか)が主人公の物語です。

 クララが病気がちなジョジ―という女の子の家に買い取られてから、ジョジ―が実家から巣立ってクララが廃棄されるまでをやさしい文体で描いています。

 AFは人間そっくりな姿形をしたヒューマノイドロボットで、太陽光をエネルギー源としているようです。

 

 太陽をエネルギー源とするというと、私には太陽光発電が思い浮かびますが、人間の形を損なっていないというところから推測するに全く新しい技術が使われているのかもしれません。

 「ロボットvs人類」という学童向けのSF短編集に出てきた月光浴を必要とするロボットと発想が似ているという印象を受けました。

 やはり、人の形を損なわない状態でのエネルギー確保というのは、SF 作家がリアリティを生み出すために焦点となる部分であると推測されます。

 

 また、作中でクララの感情が昂ったり、画像処理が追い付かない場合に視界がボックスで分割されるシーンがあるのですが、これはNDTスキャンマッチング*1とよく似ているなぁという感想を抱きました。おそらく空間をボクセルで分割して処理をおこなうことで、計算負荷を下げているのでしょう。

 ただし、物体認識はカメラによるもののようなので、LiDAR で取得した点群データとカメラによる映像入力の複合処理を行っているのだろうなと思います(人間にわかりやすく説明するためにそういった表現を選んでいる可能性もありますが)。

 なんて妄想する一方で、テレビのブロックノイズのようなものなのかもしれないとも思いました。

 

 各AF達がブラックボックス化しているような表現もあるあたり、もしかしたら、今普及開発が進んでいる ROS(Robot Operatinig System)等を下敷きにした技術が使われているのかもしれないなと思いつつ、作中に表現される社会が AF を受容する形に変化していくまでの過程には様々な課題があったのだろうなと想像しました。

 古典的なSFが描かれた当時よりもそういったロボットと協調する社会やロボットを構成する技術に対する私たちの解像度は上がってきているのでしょう。

 私たちの暮らす社会が技術により変容をしていくことを証左していることがうかがえて、かなりわくわくしながら読み進めました。

 ここまで書いておいてなんですが、作中のどこにも未来を表現していることを示唆する言及はありません。しかしながら私はつい、作中に未来の社会を重ねて読んでしまいました。

 人に似た姿をしたヒューマノイドロボットは古くから多くの人に夢想されてきましたが、要素技術の発展やコンピュータの高性能化を背景にそういった未来が近づいてきているという印象を受けています。

 死ぬまでに彼らとの生活が叶う未来を祈って、今回の読書記録は終わりとしたいと思います。

 

*1:探索空間内にある点群データをボクセルに分割して処理し、センサデータとマッチングを行う計算手法 出典:和歌山大学の中島先生のスライド https://web.wakayama-u.ac.jp/~nakajima/SelfDrivingSystem/assets/pdf/method_pmv_03.pdf