katabamido

割りを食む。

MENU

搾取される思考

鈴木大拙

 ※本コンテンツには、軽微な宗教批判が含まれています。
   不快に思われる方はブラウザバックを推奨します。

 私は敬虔とはいいがたい仏教徒です。

 私にとって仏教は「人間が社会生活を送るうえで身に着けておいたほうが得な生活習慣を取りまとめたもの」と表すことができます。

    • 思い悩まず、今を切に生きること。
    • 心をおだやかに保つこと。
    • 他人を羨まないこと。
    • 素直でいること。
    • 足るを知ること。

     

     いずれの教えも、私が悩んだ時の指針となり、その選択を支えてくれました。

     しかし、穿った見方をすれば、前述の5つは支配や管理をする側の人間にとって都合の良い思考であるといえると思います。

     ある不本意な事象をある種の諦念をもって受け入れること。

     あるいは、与えられた状況下での最適解や最適な落としどころを探ること。

     確かに、振られた賽に対して思い悩むことは無駄なことだといえるかもしれませんし、客観的に見たら間抜けだと思います。
     出目に身を任せて思考を放棄している人に「間抜け」といわれるのは納得いきませんが。

     一方で、そんな理不尽を受け入れ続けるだけの思考から新しいものが生まれるとは到底思えませんし、そんな日々を楽しいと思うことは難しいのではないでしょうか。

     新しいものを作りだすためには、思考を放棄して理不尽を受け入れるのではなく、理不尽に対する打開策を練らなくてはいけない。

     もし仮に理不尽を受け入れるのであれば、その対応はあくまで状況を打破するための一時的な手段であるべきだと思います。

     なぜこんな記事を執筆したかというと、私は最近受け入れ癖がすっかりついてしまって、課題解決能力の欠如が著しいうえに、課題を課題とも思わないような事例が散見されたためです。

     支配側に身を置いていても、被搾取側に身を置いていても、ほかのひとの権利を奪わない選択ができます。

     自分が最前線にいるために、決して思考を放棄してはいけないと感じた次第です。

     「新しいものを作りだすことができる人は、考え続けている人」と言い換えることができると思います。

     困難や理不尽に直面したときにも思考を放棄せずに済むように、日々のトレーニングを怠らないようにしたいものです。