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割りを食む。

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搾取される思考

鈴木大拙

 ※本コンテンツには、軽微な宗教批判が含まれています。
   不快に思われる方はブラウザバックを推奨します。

 私は敬虔とはいいがたい仏教徒です。

 私にとって仏教は「人間が社会生活を送るうえで身に着けておいたほうが得な生活習慣を取りまとめたもの」と表すことができます。

    • 思い悩まず、今を切に生きること。
    • 心をおだやかに保つこと。
    • 他人を羨まないこと。
    • 素直でいること。
    • 足るを知ること。

     

     いずれの教えも、私が悩んだ時の指針となり、その選択を支えてくれました。

     しかし、穿った見方をすれば、前述の5つは支配や管理をする側の人間にとって都合の良い思考であるといえると思います。

     ある不本意な事象をある種の諦念をもって受け入れること。

     あるいは、与えられた状況下での最適解や最適な落としどころを探ること。

     確かに、振られた賽に対して思い悩むことは無駄なことだといえるかもしれませんし、客観的に見たら間抜けだと思います。
     出目に身を任せて思考を放棄している人に「間抜け」といわれるのは納得いきませんが。

     一方で、そんな理不尽を受け入れ続けるだけの思考から新しいものが生まれるとは到底思えませんし、そんな日々を楽しいと思うことは難しいのではないでしょうか。

     新しいものを作りだすためには、思考を放棄して理不尽を受け入れるのではなく、理不尽に対する打開策を練らなくてはいけない。

     もし仮に理不尽を受け入れるのであれば、その対応はあくまで状況を打破するための一時的な手段であるべきだと思います。

     なぜこんな記事を執筆したかというと、私は最近受け入れ癖がすっかりついてしまって、課題解決能力の欠如が著しいうえに、課題を課題とも思わないような事例が散見されたためです。

     支配側に身を置いていても、被搾取側に身を置いていても、ほかのひとの権利を奪わない選択ができます。

     自分が最前線にいるために、決して思考を放棄してはいけないと感じた次第です。

     「新しいものを作りだすことができる人は、考え続けている人」と言い換えることができると思います。

     困難や理不尽に直面したときにも思考を放棄せずに済むように、日々のトレーニングを怠らないようにしたいものです。

     

オワコンが好き(2)

figure heads ヘッダ@4Gamer.netより(https://www.4gamer.net/games/304/G030468/20180315032/

 さて、先日「オワコンが好き(1)」にて、私が好きだったゲームについて記事を書かせていただきました。

 さて、今日も今日とて私の好きだったゲーム作品を紹介させていただきたいと思います。

 残念ながら今はサービス終了してしまいましたが、もし復刻したらぜひプレイしたいゲームの一つです。

 Figureheads はスクウェアエニックスからリリースされている、ロボットゲームで、TPSとストラテジーを掛け合わせたようなシステムになっていました。

 2016年のクローズドベータテストをプレイして以来、オープン、正式リリースを含めてサービス終了の2018年まで、夢中になってプレイしました。

 このゲームでは、プレイヤーは2Footと呼ばれる二足歩行ロボットを操作します。

 プレイヤーが操作する2Foootと、NPCが操作する2Foot 2機(僚機)の計3機が最小構成で、PvP戦では1チームあたりのプレイヤー5名、合計で15機の2Foot が陣取りを行うゲーム構成となっていました。

 しかしながら1チーム15機の2Footが動くわけですから、混戦になってしまったり、戦線が膠着状態となってしまったりすることが多く、勝敗が決しないままに制限時間が来てしまうこともしばしばありました。

 今流行りのvalorantやAPEXのように1プレイヤー1キャラクターであれば、野良でマッチングしたとしても問題なくプレイできるとは思いますが、Figureheadsは戦略色が強すぎたのだと思います。

 当時はe-Sportsという言葉を耳にすることが増え始めたころで、政令都市で競技会が行われていたり、ゲーミングPCブランドとのタイアップがあったり、ゲームセンターでアーケード版がリリースされたりと、運営はかなり気合いを入れていたようでした。

 ほかにも2Footのカスタマイズや、僚機NPCのカスタマイズなど、要素が盛り沢山ではありましたが、徐々にプレイヤーが少なくなり、ついにはサービス終了となりました。

 同様のゲームがあればぜひプレイしたいのですが未だリリースされることはなく、絶賛難民中です。

 叶うことがない望みだとは思いますが、いつかまたプレイできることを願って、この記事を締めたいと思います。

 

katabamido.hatenablog.com

 

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オワコンが好き(1)

オトギア壁紙(公式ツイッターより)

オワコンが好き

 私はオワコンのことを好きになる傾向があるようです。

 インターネットの住民たる皆様には釈迦に説法かと存じますが、「終わったコンテンツ」を示すネットスラングです。

 本ブログのアクセス数は週に一人か二人ほどで、かなり少ないといえます。

 しかし、私が好きだったものが少しでも1分でも誰かの記憶にとどまっていてくれたならと思い、ここに綴らせていただきます。

 さて、先ほどオワコンと申し上げましたが、実をいうと正確な意味でのオワコンというわけではありません。

 「終わりゆくコンテンツ」と表現するのが正しいと思います。

 現に私は、リアルタイムでそれらのゲームを遊び、その最期を見届けてきました。

 今回はインターネット老人が「昔はよかった」と回顧する回といたしましょう。

オトギア

 「オトギア」は、サイバーエージェントが配信していたスマートフォンRPGです。

 2014年2月から2015年2月まで配信されていたゲームです。タイミングでいうと、パズドラブームがやや収まってきたころでしょうか。

 ゲームのシステムとしては、FGOFate/Grand Oder)が近いと思います。

 私はゲームの存在を「好きなキャラクターを動かし、物語を楽しむ」と位置付けているので、結局サービス終了までに最終章をクリアすることができませんでした。

 「オトギア」は、その名の通り「お伽話」と「歯車=スチームパンク」が合体したような世界観です。

 もとよりスチームパンク好きな身からすると垂涎ものの世界観で、当時はかなり熱中しました。

 赤ずきんからかぐや姫まで、東西のおとぎ話のキャラクターが、何者かによって改変された物語を取り戻すために戦うというあらすじだったと記憶しています。

 お伽話にはバッドエンドともとれる終わりもあるので、皆が正しいストーリーを取り戻して幸せになれるのかはかなり微妙なところですが、なかなか切ない気持ちでプレイしました。

 また、チャプター毎に入手済みキャラクターのスキンが解放されたことも強く印象に残っています。

 もうアーカイブにはほとんど残っていないかもしれませんが、今でもそのキャラクターデザインはネットの海を漂っていることでしょう。

 画像は「赤ずきん」のノーマルスキンと、ストーリー進行によって解放されるスキンです。

 コルセット、ゴーグル、ブーツ、そして歯車。好きな人には刺さるデザインなのではないでしょうか。

 長い思い出話にはなりましたが、お付き合いいただきありがとうございました。

 「昔はよかった」なんていうつもりはさらさらありませんが、この記事が誰かに届くことを祈っています。

赤ずきん,拳銃, スチームパンク

赤ずきんノーマルスキン

赤ずきん,拳銃,スチームパンク

赤ずきん解放スキン

  この記事を執筆するにあたり、画像検索をかけてみたところ、電撃オンラインにリリース当時の記事が掲載されていましたので、参考文献としてリンクを張っておきます。

 

参考文献

twitter.com


dengekionline.com

 

 

 

 

 

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床に寝そべってみる

木立、曇り空

近所の森の底から

 フローリングが好きだ。

 欲を言えば、よく磨かれた板張りの床がいい。なるべくならクリアのニスやワックスが塗られていないほうが好ましい。

 ワックスが塗られていると気付く程度にはべたつくので、これじゃない感がある。

 はだしで毛皮に触れた時のような、木地の質感が好きなのである。

 この盛夏に話すことではないかもしれないが、冬でも家でははだしで過ごすほど板張りの床の感触が好きなのだ。

 十年ほど前、地元では名の知れた道場に通っていたことがあった。練習がキツかったので、受験勉強を理由に足が遠ざかった。

 道場の人間は皆、自分がその道場に所属していることを誇りに思っていた。

 私はそんなに一途にはできていないので、そういった環境があまり好きになれなかったが、稽古の前後によく磨かれた道場の床の肌触りやにおいは今でも深く印象に残っている。

 もしかしたら私にとって、きれいに磨かれた床は丁寧な暮らしの象徴なのかもしれない。

 おなじような理由で、寺院や神社の床も好きだし、濡れ縁がある家に暮らすことができれば申し分ないと思う。

 我が家もそんな床にしたくて、今でも気が向いたら雑巾がけをしている。クイックルワイパーではどうしても物足りないのだ。

 夏は特に、きれいに掃除した床に寝そべるのが最高の贅沢だと思っている。

 風呂上りの火照った素肌を床に押し付けるようにして、冷たい床を味わえれば最高である。

 上裸のまま床に寝そべっていると、空気に接しているところよりも床に触れているところのほうがよく冷えることに気が付く。

 床に接しているところから冷たくなっていくので、姿勢のゆがみを意識するきっかけにもなる。

 さて、この記事を執筆するにあたり調べてみたところ、空気の熱伝導率は0.0241(W/mK)であるのに対し、木材の熱伝導率は0.12(W/mK)らしい。

 木材は空気の約五倍ほど熱をよく伝える性質があるということだ。

 つまり、体感は数値としてもおおむね正しいといえる。

 気が付くと二時間ほど意識を失っていて、急いで服を着て布団に潜り込むこともざらにある。

 体が冷えているので、汗でべたつく布団を蹴り飛ばしたりせずに済むし、布団を被らずに意識を失う癖がついていると、どこでも仮眠が取れるので大変便利である。

 個人的には冷やしたビールよりも、スイカよりも好きな日本の夏の風物詩だ。

 今週のお題「冷やし◯◯」

楽天主義の幕あけ

ヒスイカズラ

ヒスイカズラ@とちぎ花センター

 私の人生を変えた出来事は、高校2年生の頃に車に轢かれたことだ。

 2014年10月16日、その日は一足早く冬が訪れたかのように、空気がピンと張り詰めていて、遠くの磐梯山がとても鮮明に見えたことを覚えている。

 事故自体は単純で、自転車で信号のない交差点を渡っていたところを、一次停止していた車を避けた後続車に横からはねられた出会い頭の事故だった。

 相手の乗用車はかなり低速で交差点に侵入してきていたので、眉上と瞼を数針と、左手首の骨端にひびが入ったほか、全身うちみに見舞われた程度で済んだ。

 水平距離で5メートルほど吹っ飛んだようだった。

 地面に叩きつけられながら、「あぁ、人間って意外とすぐ壊れるのだな」と思った記憶がある。

 小学一年生の頃から空手を始めて、小学4年生で剣道に転向したこともあり、身の回りには頑丈な人が多かったので、とても新鮮に感じた。

 腕のひびにしたって、「痛い」というよりは「不思議と動かしたい気持ちにならない」という気分が正しかった。

 その日はたまたまレポートの提出日だったので、額から流血しながら自転車を押して学校に向かおうとしたが、私をひいた人に引き止められて、救急車に乗せられた。

 救急車に乗せられてからの記憶は残っていない。

 

 生死の境を彷徨うほどの大事故ではなかったし、幸い後遺症も残らなかったが、それ以来「何かをはじめようとする」ハードルは一気に下がった気がする。

 機会損失とは、今後得ることのできるはずの利益が、ある障害により失われる可能性を表現する言葉だ。

 私の少ない語彙に機会損失の対義語となる言葉は収録されていないが、単位時間あたりに危険な事象が発生すると仮定した場合、長生きをするということは、それだけ危険に晒される回数が高くなるということでもある。

 未来を予知できない以上、現在手元にある「機会」や「やりたいこと」、「伝えたいこと」は最大限形にしておかなくては勿体無いと思う。

 人間は意外と簡単に壊れてしまうので、明日それをやれるかどうかは、明日になってみないとわからないし、思っているだけでは伝わらないことも沢山ある。

 仏陀の言葉を借りるなら「思い悩むな、今を切に生きよ」といったところだろうか。

 良い「今」の積み重ねは、きっと良い「未来」を作り出すのだろうと信じている。

今週のお題「人生最大のピンチ」

 

一人暮らしのはじまり、書痴のおわり

詩、明朝体、文庫本

有名な詩の一説(ビブリア古書堂の事件手帖だったかな)



 私はかつて書痴でした。

 父親も母親も読書家で、壁面本棚があるような家に暮らしていました。

 小学一年生の頃に図書室で「ハリー・ポッターと賢者の石」に出会ったことをきっかけに、書痴への道を歩み始めたのでした。

 それまでは読書の時間が退屈で仕方がなかったので、小学校低学年には手の届かない場所にあった重そうな本を先生にせがんで困らせてやろうと思っていました。

 結果はあえなく失敗。

 先生は片手でひょいと本をとると、私に渡してくれました。

 本を軽々ととってしまわれたこともさることながら、「お前にはまだ早い」と言われることもなかったので、どこか肩透かしを食らったような気持ちになりました。

 静山社のロゴと、紺色のカバーにクリーム色の紙、目が覚めるようなかぼちゃ色のしおりと、それに合わせたようなオレンジ色の見返しを今でもよく覚えています。

 初めて読む小説は字が多いし、難しい漢字はたくさんあったけれど、同級生の誰もがアクセスできない情報にアクセスできている優越感や、先生が認めてくれたという充実感が、私を読書へと駆り立てました。

 後々、家がそこまで裕福ではなかったことを知ったけれど、両親はそんな中でもやりくりをして、月2冊までは好きな本を買ってくれました。何よりもそれだけの投資(当時は投資なんて言葉は知りませんでしたが、両親がお金をかけてくれていることはわかっていました)をしてくれることがうれしくてたまりませんでした。

 知識量と語彙に反比例するように、みるみる視力が落ちましたが、それでもよかった。

 むしろ視力と引き換えに知識が手に入ることが誇らしくさえありました。

 さて、本棚の話でしたっけ?

 もちろん、一人暮らしを始めた今でも本棚に囲まれた生活を送ってはいます。

 ワンルームを広く見せたいので、腰よりも高い家具はありませんが、漫画に参考書、画集まで幅広くそろえています。

 実家にいた時と変わったところは、小説の割合がかなり小さくなったところでしょうか。

 置き場所がないので、シリーズになりがちな小説は電子書籍で購入することにしています。

 画集や写真集は意外と電子書籍になっていないことが多いこと、子供が見ても面白いことなどを理由に、紙媒体でそろえることにしています。

 自分が賢い人間だとは思いませんが、私の周りの大人たちがそうであったように、子供の学習を妨げない大人でいられることを願っていますし、子供たちは僕らよりずっと多くの情報を1ページから感じ取ってくれると思います。

 

今週のお題「本棚の中身」

 

ジムニー

脱輪した相棒@野々市(まじごめん)

 2020年5月、僕の新たな相棒がやってきた。

 ジムニー(JB23W)2008年式、6型で、ターボ付きのK6Aエンジンを搭載している。パートタイム4WDの5段変速で、1速の状態だとクラッチをつなぐだけで前進する頼もしい奴である。

 人気車種とあって、12年前の車ながら本体価格は84万円、走行距離は8万キロ弱だった。

 前のオーナが丁寧に乗っていたのだろう、傷も汚れもほとんどなく、ぴかぴかのあずき色が可愛い。純正のまま乗られていたこともあって、ほぼ一目ぼれで購入に踏み切った次第だ。

 タイヤとナビが古かったので新しいものに交換し、さらにETCをつけて、初期費用を諸々入れた状態でしめて100万円。

 地場の修理工場を併設している車屋さんと関係を構築できたことを考慮すると、お値段以上の買い物をしたし、何より維持費が安上がりである。

 当時社会人二年目だった身からしてみれば、なかなか計画性のない買い物をしたと思うが、祖父から譲り受けたデミオを下取りに出したお陰で生活への影響はほとんどなかった。

 

 禁煙の有無に特記事項はなかったが、どうやら前のオーナは喫煙者だったらしく、後部座席を外したらタバコの吸い殻が落ちていた。

 しかし、内装にヤニがついているようなことはなく、今も満足して乗っている。

 余談ではあるが、近年電子タバコが台頭している影響で、禁煙車と喫煙車の判別は難しくなっているらしい。

 

 そんな彼も、この2年少々で走行距離が10万キロを超えた。

 1年で1万キロ強走行している計算になる。

 不調らしい不調といえば1度だけプラグが故障したくらいで、それ以外は10万キロ走行した車とは思えないほど快調である。

 左右の足でペダルを踏む感覚といい、不陸の多い道も高速道路もそつなくこなすところといい、ステアリングを握るたびにわくわくさせてくれる相棒だ。

 シートヒータがついていたり、フォグランプがついていたり、各窓がほぼ垂直で見切りがいいところも大変も気に入っている。

 燃費は落ちるが、ぼちぼちフォグランプを増設したり、ルーフキャリアを付けたりと、やってみたい改造で妄想は広がるばかりだ。

 

 老骨に鞭を打つようで恐縮だが、僕は彼がまだまだ現役だと思っているし、きっとジムニーもまだ走れると思っているに違いない。

 これからも、一緒に遠くへ走ってゆこう。たくさん面白いものを見よう。オドメータが回らなくなるまで。

 

今週のお題「人生で一番高い買い物」

オーシャンズテラス柴垣

 

海のみえるドームテントより

 怒涛の繁忙期を終えた三月三十一日のこと。

 僕とジムニーはわき目もふらずに東海北陸道を北進していた。

 湘南を出たのは十七時頃で、目的地は石川県の内灘にあるグランピング施設、オーシャンズテラス柴垣だ。

 金沢で一泊してから、土曜日を内灘で過ごす予定だった。

 

 土曜日は薄曇りで、北陸の四月らしく穏やかだった。

 のと里山街道は風が強く吹いていて、会話もままならないほどだったけれど、風は暖かく湿っていて、ドライブはおおむね順調だった。

 チェックイン予定の十五時丁度についたが、僕たちのほかにも、オーナの知り合いと思しき親子連れやカップル、大学生の男の子たちでロビーはにぎわっていた。

 一通りの説明を受けた後、ドームテントに案内してもらう。

 

 アパートのような鉄扉を開けて中に入ると驚くほど静かで、僕は流体工学実験室の無響室のことを思い出した。

 一般的な建築物と異なり、部屋の内壁が布でできているうえに、テントと違って可搬性を考慮する必要がないため壁面に断熱材が入っているのだろう。

 環境音としては、耳を澄ませば子供の笑い声が聞こえてくる程度で、恋人と僕の言葉だけが数m³程度の空気を震わせて霧散していく。

 テレビもないので、海を眺めながら会話をして過ごす。

 砂浜が波に削られるようにゆっくりと、時間が言葉に溶けていく。

 

 凪のような時間に感動する反面、どこかでサナトリウムを連想してしまう自分に嫌気が差した。

 「なんだか、治療しに来たみたい。」

 僕の自嘲気味な一言を聞いて、恋人は頷いてこう言った。

 「頑張っていたもんね。」

 きっと真意を汲んでくれたのだろう。飾り気のない一言だったけど、そんな素直な言葉に安心感を覚えた。

 夕食を済ませた後、交互にシャワーを浴びに行った。四月といえどまだ桜前線が訪れる前のこと。屋外で過ごすには少し肌寒かったことが記憶に残っている。

 恋人を待っている間、僕はホットカーペットに身を横たえて、ビニル製の窓越しに星空を眺めながら、いつの間にか眠りに落ちていた。

 今までの人生で、星空を眺めながら眠りにつくことがどれほどあっただろうか。

 静寂は人を孤独にしたり、息苦しさを感じさせたりする半面、そばにいてくれる人の体温や言葉を最も減衰が少ない状態で伝えてくれる媒体となりえることを学ぶことができた夜だった。

 

 

今週のお題「何して遊んだ?」

「在宅勤務」と「すべてがFになる」

西田幾多郎記念館

 濃厚接触者になったため、在宅勤務をすることになった。

 状況的には濃厚接触者だったが、無症状なうえ陰性で、自宅待機の間も元気に勤務していたので、余計な事を考える時間がたくさんあった(弊社では在宅勤務中定時退社扱いになるので、いつにもまして自由な時間が長かった)。

 初めて森博嗣*1先生の作品に触れたのは、中学生のころだっただろうか。

 「スカイ・クロラ」が押井守監督により映画化されたとき、文庫版の表紙がアニメ版になり、平積みされていたのに手を伸ばしたことがきっかけで、熱心なファンになったのだと記憶している。今も理系の道を歩んでいるのは、この出会いがきっかけだといえると思う。

 中学生の頃には「スカイ・クロラ」を見に行くほどハイソな趣味を持った友達はいなかったし、何より田舎に暮らしていたので、とても見ることはできなかった。

 森博嗣作品のファンならば誰もが通る道であろう、S&Mシリーズに手を出したのは必然といえると思う。

 私が持っていたのは新装版の方だった(白いレゴブロックでFが形作られた表紙である)。

 さて、本筋に戻ろう。

 なぜ、「在宅勤務」と「すべてがFになる」との間に関連性を見出したのか。それは、物語内のある人物のセリフが鮮明に印象に残っていることに起因する。

 「建築も都市も単なるプログラムにすぎません。集団の意思と情報の道筋だけが都市の概念ですし、すなわちネットワークそのものの概念に近づくことになります。」

 「(前略)人と人が触れ合うような機会は、贅沢品です。エネルギィ的な問題から、そうならざるをえない。(中略)地球環境を守りたいなら、人は移動するべきではありません。私のように部屋に閉じこもるべきですね(後略)。」

 もうすでに、仮想空間には社会が構築されていて、社会に属するために物理的な接触は必要なくなってきている。

 当時もちろんこのような状況が作り出されることは予想だにできなかったとは思うが、ここ数年で仮想空間上の社会の存在は無視できないものになり、加速度的に彼の描いた世界に近づいている。

 奥付を見るに、1998年12月15日に初版が出版されたとのこと。

 その先見性に鳥肌が立った。

 私はきっと、直接彼の講義を受けることはかなわないだろう。しかし今よりももっと彼の思考をたどりたいと思った。

 また森博嗣作品を読もう。

 

*1:以下冗長さを回避するため、敬称を省略しますが、心の底から尊敬している旨をここに示します

クララとお日さま

太陽 雲 夕暮れ

寝床に戻る夕陽@内灘海岸

 久しぶりにフィクションを読了したので、ここに記録します。

 「クララとお日さま」は言わずと知れた2017年のノーベル文学賞受賞作品です。作者はカズオ・イシグロ先生というイギリス人の作家さんとのこと。

 私は小さなワンルームに住んでいるので、紙媒体ではなく電子書籍で購入しました。ちなみに電子書籍の初版は2021年です。

 

 さて、本題に入ります。

 「クララとお日さま」は題名通り、「クララ」というAF(人間の子供に対する友人ロボット:Autonomous Friendsの略でしょうか)が主人公の物語です。

 クララが病気がちなジョジ―という女の子の家に買い取られてから、ジョジ―が実家から巣立ってクララが廃棄されるまでをやさしい文体で描いています。

 AFは人間そっくりな姿形をしたヒューマノイドロボットで、太陽光をエネルギー源としているようです。

 

 太陽をエネルギー源とするというと、私には太陽光発電が思い浮かびますが、人間の形を損なっていないというところから推測するに全く新しい技術が使われているのかもしれません。

 「ロボットvs人類」という学童向けのSF短編集に出てきた月光浴を必要とするロボットと発想が似ているという印象を受けました。

 やはり、人の形を損なわない状態でのエネルギー確保というのは、SF 作家がリアリティを生み出すために焦点となる部分であると推測されます。

 

 また、作中でクララの感情が昂ったり、画像処理が追い付かない場合に視界がボックスで分割されるシーンがあるのですが、これはNDTスキャンマッチング*1とよく似ているなぁという感想を抱きました。おそらく空間をボクセルで分割して処理をおこなうことで、計算負荷を下げているのでしょう。

 ただし、物体認識はカメラによるもののようなので、LiDAR で取得した点群データとカメラによる映像入力の複合処理を行っているのだろうなと思います(人間にわかりやすく説明するためにそういった表現を選んでいる可能性もありますが)。

 なんて妄想する一方で、テレビのブロックノイズのようなものなのかもしれないとも思いました。

 

 各AF達がブラックボックス化しているような表現もあるあたり、もしかしたら、今普及開発が進んでいる ROS(Robot Operatinig System)等を下敷きにした技術が使われているのかもしれないなと思いつつ、作中に表現される社会が AF を受容する形に変化していくまでの過程には様々な課題があったのだろうなと想像しました。

 古典的なSFが描かれた当時よりもそういったロボットと協調する社会やロボットを構成する技術に対する私たちの解像度は上がってきているのでしょう。

 私たちの暮らす社会が技術により変容をしていくことを証左していることがうかがえて、かなりわくわくしながら読み進めました。

 ここまで書いておいてなんですが、作中のどこにも未来を表現していることを示唆する言及はありません。しかしながら私はつい、作中に未来の社会を重ねて読んでしまいました。

 人に似た姿をしたヒューマノイドロボットは古くから多くの人に夢想されてきましたが、要素技術の発展やコンピュータの高性能化を背景にそういった未来が近づいてきているという印象を受けています。

 死ぬまでに彼らとの生活が叶う未来を祈って、今回の読書記録は終わりとしたいと思います。

 

*1:探索空間内にある点群データをボクセルに分割して処理し、センサデータとマッチングを行う計算手法 出典:和歌山大学の中島先生のスライド https://web.wakayama-u.ac.jp/~nakajima/SelfDrivingSystem/assets/pdf/method_pmv_03.pdf